こちらのブログで「老害を定義してみる」として
デジタル時代の否定的な立場を「老害」と断罪してしまいましたが

掲載後に少し違和感もあり改めて書いて見ます。

デジタル否定派と老害は別物

老害と一言で括り「デジタル時代の否定派は老害」と書いて見ましたが
これは大きな間違いでした。
もちろん高齢者のポジショントークとして、経験上のマウントなどは
老害に当たりますが、こと「デジタル化推進」と「老害」はイコールではないですね。

高齢者でも前向きなデジタル推進派もいますし、若者世代でもデジタル否定派もいます。
そこで、少し考え方を再整理するために否定派とあまのじゃくな方について考えて見ます。

今も昔も一定数いる否定から入る人

議論が散らかるのでデジタル関連に限定して考えて見ましょう。
あなたの周りで、何か物事を進める際に「否定」から入る方はいませんか?
デジタル案件に限定して見るとわかりやすいかも知れません。

否定から入る方の特徴や心理はググっていただけばたくさん出てくるので
「否定から入る方の心理」で検索してみて下さい。

ここでは、結果的に物事は進んでいるのに、その否定する方々が
・何故否定するのか?
・何故柔軟に対応出来ないのか?
・否定ばかりしていて得なのか?

こんな部分について考えて見ます。
私自身も過去から現在までデジタル推進に於いては
多くの高齢者否定派の方々と対峙して来ました。
それを「老害」と呼ぶのか?いや、それは「若い世代」でも一定数おります。
そう考えると、世代の問題では無く「性格」の問題と片付けられます。

しかし「性格」と捉えると「あまのじゃく」に見えますので
少し違うのかなと感じる所でもあります。

では何なのか?自分なりの薄い分析で恐縮ですが
「想像力」の欠如なのかなと感じます。

想像力とは、「自身が経験していないことや未来のこと、現実には存在しないことを
頭の中で思い描く力」のこと

ここに尽きる感じがします。
・半径5m以内で起きていること以外に興味が無い
・自部署内や自分ごとでは問題ないので不要
・今で満足なので他人や将来課題とかは無関係

こんな感じなのかも知れません。
「現在の自分軸発想」が基本で、そこに聖域を作っている可能性があります。
なので、他人の意見には否定的になり意固地にもなり得ます。
自身が正義なので少し厄介でもあります。

色眼鏡ではありますが、あまのじゃくでもあるのか
時代が進み自らの否定内容が肯定された場合には「しれっと」乗っかっていたりもします。
こんな繰り返しで時代は進んで来ますよね。

このような事例は山ほど経験していますし、巷でもいっぱいありますよね。

今から10年位前、とある企業さまで「これからはクラウドの時代」とお話ししたら
「大事な情報を外に出せるわけないだろう」と逆ギレされた過去
今ではしれっと「クラウド」活用しています。

今から30年位前、これからは「電子メールの時代」と社内で関係者に問うた所
「仕事にメールなんて使える訳ない」と猛反対され、舌の根も乾かないうちに
しれっと「メール活用が主流」に

「無線LANは計測器に悪影響与えるので工場での使用は持ってのほか」と言う上司
様々な実験(事例)データを駆使して説得も及ばす…数年後何事も無かったように
普通のインフラに…携帯電話が禁止の病院などもこれに当たります。

今で言えばデジタル庁の活動やマイナンバー制度などに否定的な方も多いです。
SNSなどを見ていると顕著です。賛成派の意見を陰謀論と唱えて否定する方もいます。
皆が肯定派ばかりでは異常な世界に進む可能性もあり一定数の否定派も必要なのかもですね。

小さい声で叫びたいと思います
「個人的意見な意見も尊重はしますが未来思考で想像力を働かせて行きましょう」
そうは言っても「想像力を働かせた結果の否定」の場合はスルーに限ります。